王昭君は、教訓抄に「大唐に王昭君という后あり。姿かたち美しく、ならぶ人なし。胡国の王があるとき唐の国王に莫大な宝を貢いだ。唐王これを喜び、いかなることもかなえましょうと申したので、胡王、后の宮を一人給わり我国につれて帰りたいと願い出たところ唐王はこれを許した。
そして三千人の后の姿かたちを絵師に描かせ、宮中に持ってこさせるように命じた。后達は絵師に美しくえがくよう宝を与えて頼んだが、ただ一人王昭君は、われひとに優れたりければ、ありのままに描けと何も与えずに描かせたところ、絵師が悪しく描いたため、唐王が王昭君を胡王へ向かう馬上で嘆き悲しむときに作りたる楽」といわれ、後宮の美女三千人の中でも美人のほまれ高い王昭君は、絵師のたくらみで都落ちの悲しみに突き落とされた悲劇の音楽で、悲しい分かれの音楽である。とされているみたいです。